□ 青天の霹靂 □



日差しに目が刺激されて、ゆっくりと体を起こした。窓から外を見ると、どこまでも広がる薄暗い空にまだ朝日が差し込んだばかりだった。
明朝独特の、少しひんやりした風が頬を撫でていく。一晩も経つと、だいぶ落ち着いてきて、色々と考えられるようになった。
まずは、師の所に帰って今までの経緯を話して謝らないとと思って、隣の部屋の沙織ちゃんのところに向かった。

「沙織ちゃん。朝早くからごめんね……って、えっ、沙織ちゃん?それ……」
「おはようございます。お姉さま、どうかしました?」

沙織ちゃんは石の祭壇のような所に横たわっており、そこからゆっくりと体を起して、まるで何事も無かったかのように挨拶をしている。
もしかして一晩中この石の上に寝てたのだろうかという疑問が出てきた。

「沙織ちゃん、もしかして一晩中ここで寝てたの?」
「ええ。まあ……」
「なんでベッドで寝ないの?」

よく部屋の中を見てみると、あまりにも素っ気無い。どうみても、年頃の女の子の部屋じゃない。
沙織ちゃんを見ると、困ったように苦笑していた。

「ここにはベッドはありません。それに、私はアテナですから……ここで寝ているのが普通のことなのです」

いくらアテネでも、体は生身の人間のはず。石のベッドとか体にどれだけ負担になるのか……それ以前に、何か色々と問題がある気もするけど。

「そっか。今度、シオンさまに相談して、普通のベッドにして貰えるように言っておくね。それに、この部屋だと寛げないでしょう?」
「私は大丈夫ですから、気になさらないでください。それよりも、こんな朝早くにどうかしたのですか?」
「あ、そうそう!私ね、いったん師匠の所に戻るね。長期間留守にしてたから、怒られるかもしれないけど。ちゃんと報告だけはしないとね!」
「ええ、わかりました。くれぐれも無理はしないでください」
「うん!じゃあ行ってくるね!」

沙織ちゃんに笑顔で軽く手を振って神殿を出ると、珍しく空がどんよりと曇っている。
いつも晴れているのに珍しいなと思い、急いで階段を下りていく。急がないと、目的の場所に着く前に雨が振りそうだった。
だけどさすがに12宮の階段。上るのも大変だけど、降りていくの時間がかる。双児宮を抜けた所で、ぽつりぽつりと雨が降ってきた。
なんとか金牛宮を抜けた頃には、まるでバケツをひっくり返したような雨が降ってきたから、走って階段を下りていく。
あと3,4段ってところで、階段を踏み外した。

「……痛っ……うわぁ、やっちゃったっ……」

聖闘士として、ありえない失態だった。慌てて起き上がったけれど、全身が泥まみれになっている。
思わず溜息を零していると、聞き覚えのある声が少し遠くから聞こえてきた。振り返ると白羊宮の入り口に立っているムウが居た。

。何をしているのですか……」
「別に。私が何しようといいでしょ」
「はぁ……。仕方ありませんね。白羊宮で雨宿りして行ってください」

このまま雨の中に立っているよりもまだいいかもしれない。それに戻っていくとしても、また12宮を通らないと行けないから、かなり大変だ。
でも、それよりもムウの世話になるという事がなんとなく嫌だった。

「嫌。なんで私がムウの世話にならないといけないわけ?」
「わたしは別にかまいませんが、アテナに心配をかけますよ?」

それを言われると、白羊宮に行くしかなくなった。
それに、沙織ちゃんにびしょ濡れの泥だらけなんて、とてもじゃないけど見せられない。

「わ、わかったわよ。言っておくとけど、沙織ちゃんに心配かけない為だからね。それに、雨が止んだらすぐに立ち去るから」
「ええ、それでかまいません。では、こちらに」

白羊宮に入っていくムウの後を慌てて追いかける。中を突っ切る通り道からそれて、別の道に行くと居住用のスペースがあった。
神殿の内部に入ったのは初めてで、思わず辺りを見渡してしまう。
部屋は性格が出るというけど……ムウにしては木製のものが多くて、なんとなく温かみがあった。

「私、びしょ濡れだからこのまま立ってるわ。椅子を濡らしたら悪いし」
「そうですか。少し待っていてください」

更に奥の方の部屋にムウは消えた。あまりに暇だったから、部屋の中を見渡してみる。
椅子とテーブルに時計があって、端っこのほうに簡易式の台所が備え付けてある。ちゃんと戸棚もあって、食器が並んでる。
物珍しさもあって色々と見ていると、ムウが戻ってきた。

「お風呂、沸いたので使ってください」
「え?お風呂なんていいわよ。ただ雨宿りしに着ただけなのに」
「その泥だらけの格好で出歩くつもりですか?」

確かに聖闘士が泥だらけの格好で歩いていたら、何かありましたと言っているようなものだった。
それに髪なんて泥をまぶしているような感じがして気持ち悪いし、聖衣の隙間に砂が入っててあまりいい気がしない。
悩んでいると、人の返事も聞かずにムウは「こちらですよ」と言って、進んでいく。仕方ないので、着いていくと浴室らしき部屋の前で止まった。
部屋の扉を開けて入っていくから着いていくと、そこはやっぱり脱衣所だった。

「では、わたしは行きますけど……何か困ったことがあったら、呼んでください」
「あ、ありがと……」

一応お礼を言うと、ムウは少しばかり驚いたように目見開いた。次の瞬間には、やたらと優雅に微笑んで「どういたしまして」と言った。
その微笑に少しだけ見入ってしまったけど「これはムウよ。ムウ。だからただの気の迷いよ、私」と自己暗示のように頭の中で唱えた。
ムウが出て行ったのを見送ってから、仮面を外して身に着けているものを全て脱いだ。浴室に入ると、すぐに汚れを濯ぎ落としてお湯に浸かる。

「ふぁ~……生き返るわぁ~。やっぱりお湯にはしっかりと浸からないとねぇ」

思いっきり背伸びをして、息を吐くと疲れが取れていくような気がする。けど、あまり人の家のお風呂で寛ぐわけにも行かない。
かなり早い気もするけどもう出てしまおうと思って、立ち上がって脱衣室に行ってみると、バスタオルがなかった。
仕方ないから、浴室の扉を少しだけ開けて、隙間からムウを呼んでみようとしてドアに振り向いたら、いきなり扉が開いた。
そこには、バスタオルと着替えらしきものを持ったムウが立っていて、ムウは驚きのあまり目を思いっきり見開いて凝視していた。

「え、あ……き、きゃぁぁっ!!オブリヴィオン・フラッドっっ!!」
「?!……っクリスタル・ウォールっ!!」

とっさ的に必殺技の1つを唱えて両手を前に突き出して、小宇宙を全力で解き放った。
大河のエリダヌスをイメージした、水色と白色の煌く光が激流のようにムウに向かって流れていく。
この光の激流に飲み込まれると、一時的に自我を失うが……ムウはしっかりと防御していて巻き込まれることは無かった。
無傷のムウを見て、諦めにも似た感情が沸いてきた。その場で、自分の体を抱きしめるように丸まって座り込んだ。

「もうっ……なんなのよ。信じらんない……っありえないわ」
「すみません、わたしの……注意が足りなかったようです。着替えと拭くものをと思ったのですが……思ったよりも出てくるのが早くて……その」

口ごもっているムウを無視していると、上からパサリと柔らかな布を被せられた。
きっとバスタオルなんだろうと思った。そんなことを気にするよりも、今は別の考えが頭をよぎる。
掟に従って、今まで誰にも素顔を見られたことなんて無いのに……よりにもよってムウに素顔を知られてしまうなんて……思わず涙が滲んでくる。
顔どころか全裸まで見られたとなると、どうなるんだろう私。ここまでくると、自嘲気味な笑いが出てくる。
掟だと愛するか殺すしかない、でもさっきの攻撃を塞がれたというで実力の差ははっきりしていて、殺すことは不可能に近い。

「もう、いいよ……ねえ、ムウは女聖闘士の掟って知ってる?」
「掟ですか?一応、知ってはいますが……」
「そう。ねえ、残念だけど私はムウの事は嫌いなの。だからこれはね、私にとっては大問題なのよ」

いっそうのこと、聖闘士を辞めようかしらと思ったときに沙織ちゃんの悲しそうな顔が脳裏に横切った。
もういっそうのことシオンさまと沙織ちゃんに相談してみようかと思った。それに教皇とアテナなら、なんとかしてくれるかもしれない。
そう考えると、気分がずいぶんと浮上した。善は急げというし、今すぐにでも向かおうと思い、バスタオルをしっかりと握り締めて立ちあがった。

「決めたわ。私、シオンさまと沙織ちゃんに相談してみる!」
「そうですか。なら、わたしも一緒に行きますよ」
「はあ?別にムウは着いてこなくてもいいわよ」
「あの壁。一応、報告に行かないと修理ができませんからね」

ムウの視線の先を追うと、さっきの必殺技で大きな穴の開いた壁があった。そこから風が入りこんでいる。
急にぶるりと寒気が襲ってきて、くしゃみが出た。ふと、バスタオル一枚しか羽織ってないことに気づいた。
結局、ムウに案内されて客室に向かい、そこで渡された服に着替えた。