□ 得たもの □
言われたとおりの道を行くと、洗剤の匂いと水の匂いがしてくる。
歩いてきた道は教皇宮の裏の方に回る道だったらしく、少し開けた場所に小さな川が流れていた。
そこで数人の女中たちが洗濯物を洗っているのを見つけて、声をかけてみた。
「あの、洗濯物ってここでいいのかしら?」
「ええ、そうだけど……あなた、新人?」
洗濯をしていた女中は、確認するように服を見ると、不思議そうな目でこちらを見てきた。
もしかして知らない女中だから怪しまれているのかもしれないと思い、慌てて話しかけた。
「その、アテナ神殿から降りてきたんだけど、女官の方に洗濯物を届けるようにと頼まれてしまって……」
「あら、それは不運ね。まあ、女官の人たちには下手に逆らわない方が良いしね。洗濯物ならその籠に入れておいて頂戴」
「ありがとう、お願いするわね」
手に持っていたシーツを洗濯籠に放り込むと、ついでに気になったことを聞いてみることにした。
「あ、そういえば気になることがあるんだけど……その、シオ……教皇と女官長って仲がいいのかしら?」
「教皇さまとアデライードさま?さあ……どうなのかしら。ここって上の人たちの話があまり伝わってこないのよね……でもまあ、教皇宮内で働いている人たちなら知ってるんじゃない?」
「それもそうよね、ありがとう」
たしかに教皇宮内で働いている人の方が詳しいかもしれないし、あとで誰かに聞いてみようと思ってその場を離れた。
次はどこに行こうかと考えつつ、そのまま元来た道を辿っていくと教皇の間まできてしまった。
とりあえず教皇の間を開けて中に入ってみると、なぜかシオンさまが居た。
「あれ、シオンさま……沙織ちゃんは?」
「やはりか……アテナならアテナ神殿の別宅に戻ったぞ」
よく考えたら部屋の主が居ないのに教皇やアテナや黄金聖闘士が部屋にいたら、それはそれで問題なような気がしてきた。
それにしても、沙織ちゃんが戻ったってことは、シオンさまも教皇の間に用事が無いはずなのに、どうして居るのかが気になった。
「そうなんですか。シオンさまは戻らなくて良いんですか?」
「いや、私は別に忙しいわけではないからな」
まるでなんでもないことのように、あまりに自然に答えたシオンさまに思わず呆然としてしまう。
ついさっきサガが探し回っていたはずだったけど、あれはいったいなんだったんだろうと不思議に思ってしまった。
「え、でもさっきサガが探してましたよ?」
「そういえばそうだったな。なに、ただの書類の確認と署名だけだ。とくに問題は無い」
「そ、そうなんですか……」
「なにやら納得せぬようだな……」
シオンさまは珍しく溜息をつくと、何かを思い出すように少し遠くへ視線を向けた。
「前聖戦後、聖域を復旧させた時に比べれば、サガの心労など可愛いものだ……」
そういえばシオンさまと童虎は前聖戦を生き残った黄金聖闘士で、とくにシオンさまは教皇となって聖域の復興をしていたんだっけ。
かなり過酷な戦いで、ほとんどの聖闘士が揃っていたにも関わらず生き残ったのはほんのわずかだったって聞いたことがある。
それを集めて纏め上げて、完全に復旧させるまでにはいったいどれだけの苦労があったのかは、とても想像できない。
「教皇を目指すのならば、それなりの努力も必要ということ……どのような過酷な状況に陥ろうとも必要ならば、それを成し遂げることが重要だ」
つまり女神アテナと聖域のため、延(ひ)いては平和のために必要な努力……思わず感心するようにシオンさまを見てしまった。
でもふと、前にムウがシオンさまの下で修行をしていたとき、とても厳しかったと言っていたのを思い出した。
よく考えたら天才的な才能があったとしても、7歳で黄金聖闘士に仕立て上げるって……ふと、まさかと思いつつシオンさまに尋ねてみた。
「シオンさま……気のせいかもしれませんけど、それって結局は自分が苦労したぶんサガにも苦労させるってことじゃあ……」
「フッ……気にするでない」
なぜか悠然と微笑みつつ視線を逸らしたシオンさまを見て、図星だったんだと気づいた。
思わず心の中で、がんばれサガと思ってしまった。
ふいにシオンさまが手をつかんできたので驚いた。
声をかける前に、そのまま手を引っ張るように歩き始めた。
「、それよりもこっちだ」
「え……いったいどこに」
教皇の間の片隅にある扉に進むと、そのまま扉を開けて室内へと進んだ。
部屋の広さは小部屋といえるくらいの狭さで、狭い空間に本棚と大きめの机と椅子くらいしかなかった。
室内は少しだけ埃っぽくて、すぐに人の出入りの無い小部屋だと気づいた。
「シオンさま、ここは?」
「ああ、昔……聖域を復興して間もない頃だな。その頃によく使っていた部屋だ」
シオンさまは懐かしむように机をそっと撫でた。
「あまりの忙しさに私室に戻ることもめんどうになってな、この部屋でよく作業をしていたものだ」
「そうだったんですか……でも、どうしてここに?」
今までずっと小部屋の存在を聞いたことは無くて、聞くのも入るのも初めてだった。
それに話を聞いていると過去の思い出として、置いておきたかったのかもしれない。
「もうほとんど使うことの無い部屋だ。なら使ってもかまわぬぞ」
「え、本当に使っても良いんですか?」
もしかして思い出のある部屋かもしれないと思ってシオンさまを見てみると、どこか懐かしそうに目を細めている。
「今のはアテナ神殿の女中ということになっているのだろう?アテナ神殿に帰ったように見せかけるためには、教皇の間を通らなければならぬしな」
「じゃあ、ここでも着替えても?」
「かまわぬ、ここで好きな時に着替えればよかろう。なに、内鍵をかければ誰も入ってはこぬ」
アテナ神殿への唯一の道だから、ここで着替えるのが一番良いのかもしれない。
そう考えると、この小部屋を使っても良いと言う許可はとても嬉しかった。
「シオンさま、ありがとうございます。すごく助かります」
「気にするでない……礼なら、」
ふいに顎を指で捕らえられ、上を向かされる。
あまりにも自然な動きに、思わず呆然とシオンさまを見てしまう。
シオンさまは微かに笑みを浮かべているけれど、何か変な違和感を感じた。
隠しきれない感情の片鱗が、瞳の奥に見え隠れしているような……距離を取ろうと動くと、ふいにシオンさまが動いた。
「シオ……んっ、ふっ……はぁ、っ」
いったい何が起こったのか、解らなかった。
ただ、唇に暖かな感触が触れて、少し空いた隙間からあっという間に舌が潜り込んできた。
抵抗しようと考えるよりも先に、頭が理解できずに呆然となってしまう。
その間に、歯列をなぞられながら、舌を絡み取られ吸い上げらる。
少ししてやっと何をされているのか気づいて、懇願するように両手で必死にシオンさまの胸を叩くと、やっと離された。
あまりのことで逃げるようにシオンさまから数歩下がりシオンさまを見ると、艶やかな笑みを満足そうに浮かべていた。
「……これで充分だ」
「……っ!」
はっきり言って、何が充分なのか意味が解らない。
ただ解ることは、シオンさまに深く口付けされたということだけだった。
口元を手で多い隠すと、少しずつ壁際へ下がって距離を取る。
シオンさまは微かに笑みを浮かべると、そのまま小部屋から去っていった。
完全にシオンさまの気配が消えたのを確認すると、急いで小部屋から逃げるように立ち去った。