□ 微かな動揺 □
教皇の間の小部屋から私室に向かって歩いている最中、小部屋の中でシオンさまに口付けられたことが頭から離れない。
悪戯にしては行き過ぎていて、いったい何を考えてあんなことをしたのか、解らなかった。
私室に近づいた時、誰か部屋の前に居るのに気づいた。
長い金色の髪と、黄金色の聖衣。それと隣に長い藤色の髪が見える。
「シャカ……と、ムウ?2人してどうしたの?」
「か……さきほどの部屋で待っていると約束したはずだが?」
「シャカがの部屋に残るというものですから、私も残ることにしたんですよ」
そう言えば、さっき教皇の間の出入り口の前でシャカとそんな約束をしていたのを思い出した。
シオンさまのことで、すっかり忘れてしまっていたけれど、シャカはずっと待っていたみたいだった。
「たしかに約束したけど……でも、どうして部屋の前に?」
「。貴女は、なにを馬鹿な約束をしているんですか。いいですか、がしようとしていたことは……自分から男を部屋に誘っているのと同じことですよ」
言われてみればそうだけど、でもシャカが乱暴なことをするなんてまったく想像ができない。
むしろ、そこらへんに居る人よりも、ずっと安全な気がする。
いや、シャカなら反対に撃退してくれるかもしれない。
「でもシャカだし……」
「の目には、シャカは男には見えないと……そう言いたいんですか?」
ものすごく機嫌の悪そうなムウは、なぜか笑みを浮かべている。
怒りで心なしか引きつっている気がするけれど、気のせいじゃないかもしれない。
耐え切れなくて、思わず視線を逸らしてしまった。
「え、あ……その、それは……」
無言でこちらを見ているムウの視線がとても痛い。
シャカも男だっていうことは解っているけれど、妙な安心感というか、そんなことをまったく感じさせない何かがある。
さすがにシャカ本人を前にしては、かなり言いづらい。
悩んでいると、シャカは何かに気づいたように溜息をひとつ零し、口を開いた。
「何もそう責めることもあるまい。……元はといえば、の部屋で待っていると言った私にも責任の一端はある」
「シャカ、あなたは私とが恋人同士だということを知っていて、そのような行動を?」
「むろん、知ってはいるが……任務から帰還し、久々に見たが女中の姿だったのでな、ただ気になっただけだ。別に他意はない」
「他意はなくても、行動に問題があるんですよ」
ムウは軽く目を伏せながら、はっきりと言い放つけれど、シャカはまったく動じない。
シャカらしいと言えばシャカらしいのかもしれないけれど、今は少しまずい気がする。
「そうか……だがムウよ。私よりも、もっと注意しなければいけない人物がいるのではないのかね?」
「……シオンのことですか。あなたよりも、私の方が良く知っていますよ」
ムウはシオンさまのことを気にしだしたらしく、さっきまでの苛立ちが消えていた。
ふいに小部屋での出来事を思い出してしまい、気まずいように俯いてしまう。
「ご、ごめんなさい。私、着替えないといけないから……」
「?」
不思議そうにこちらを見るムウとシャカを素通りして、部屋の扉を開けた。
部屋に入る前に一度振り返ったけれど、ムウの顔が真っ直ぐに見れない。
「ムウ……シャカもごめん、また後でね」
「ああ、私はかまわないが……」
シャカは気にしていないらしく、いつも通りだった。
少し申し訳ないような気がして、声をかけようとしても何を言ったらいいのかわからない。
妙な沈黙が辺りに漂ったとき、ムウが割り込むように口を挟んだ。
「……、どうかしたのですか?」
「本当に何も無いの……ごめんなさい」
ほんの少しだけムウの方を見ると、ムウは心配そうにこちらを見ていた。
ムウに話してしまえば、きっとシオンさまは何を思ってあんなことをしたのか、教えてくれるかもしれない。
でもきっと、先にムウは怒るんじゃないかと思ってしまった。
ただでさえシオンさまには気をつけるように言われていたのに、不用意に近づいていたなんて言い辛い。
どうしよかと少し迷ったけれど、無言の空気が気まずくて、そのまま扉を閉めて部屋へと入った。
*************
部屋に戻り、髪色を戻してコンタクトレンズを取ると、いつもの服に着替えた。
一気に疲れてしまい椅子に座っていると、息抜きにと侍女のアイカテリネに紅茶を出された。
それを一口飲んでいると、ふいにシオンさまを思い出してしまった。
俯くと、手元のティーカップに残った紅茶が目に入った。
やっぱりムウにちゃんと話した方が良かったのかもしれない。
でも、そうするとムウの機嫌が悪くなるのは目に見えている。
「さま、どうかなさいましたか?あまり元気が無い様子ですが……」
「え……あ、どうというか……ただ、少し気になることがあって」
アイカテリネの方に視線を向けると、心配そうにこちらを見ていた。
黙っていても仕方ないので、重いものを吐き出すように溜息をこぼすと、アイカテリネに話しかけた。
「最近、シオンさまの考えが解らなくて……」
「教皇さまですか?教皇さまは、さまのことをとても大切にされていると思いますが……」
「大切?大切だから……あんなことを?」
いくらなんでもあれは行き過ぎている。
思わず小さく呟いてしまったけれど、アイカテリネはしっかりと聞いていたらしい。
悩むように首を傾げると、少しして口を開いた。
「あの……何があったのかは存じ上げませんが、教皇さまは常にさまのことを気にかけていられますよ」
「常にって……それは、私がアテナの巫女として未熟だからでしょう」
「……そうでしょうか?」
休暇として与えられた日以外は、ずっと勉強漬けの毎日で、アテナの巫女として自覚するようにも言われてきた。
聖闘士として学んできたことだけではなくて、それ以外にも覚えることが沢山あった。
沢山のことをシオンさまは付きっ切りで丁寧に教えてくれたけれど、それは私がアテナの巫女だからなんじゃないかと思えた。
「一応、アテナの巫女として立場上は教皇と対等だから……しっかりして欲しいんじゃないかしら」
「さまは、アテナの巫女として十分にご立派ですよ!知性も品性も容姿も素晴らしいです!」
アイカテリネは、どこか惚れ惚れするように力説してくる。
さすがに真正面から褒められると、嬉しいけれど気恥ずかしい。
けれどよく考えたら、それはシオンさまの努力の賜物に思えたけれど……さすがに興奮気味に話すアイカテリネに言えなかった。
「あ、ありがとう、アイネ。そういえば、何か変わったことあった?みんな一気に帰ったみたいだけど……」
「いえ、とくには……サガさまが立ち去った後、シャカさまが部屋に居座ると言い出したのをムウさまが止めに入り、教皇さまの提案で部屋の外で待つことになってしまったこと意外は……」
シャカとムウとシオンさまの3人の会話を想像してしまい、思わずくすりと笑ってしまった。
「ふふっ……本当に3人ともマイペースよね。沙織ちゃんも居ないみたいだけど、アテナ神殿に帰っていったの?」
「はい。アテナさまは別邸にお戻りになり、教皇さまは見送りにと付き添っていきました」
もしかして沙織ちゃんが居なかったら、シオンさまとムウとシャカが部屋の前に並んでいたってことじゃあ……と、気づいた。
それはそれで、またムウの機嫌が急降下していきそうな……でもシオンさまのことだから、そのまま3人で部屋に居たという可能性もあるかもしれない。
そこまで考えて、シャカに事情をまだ話していたなかったことを思い出した。
「あ……私、シャカに事情を話すのを忘れてたわ」
「そういえば、シャカさまはさまの服装をとても気にしていたようでしたが……」
「ごめん、ちょっと童虎を連れて処女宮に行ってくるわね」
「はい、いってらっしゃいませ」
シャカはとても気にしていたみたいだから、もしかしたらずっと処女宮で待っているかもしれない。
少し気が重いけれど、手に持っていた紅茶を飲み干すと、急いで童虎を探しに部屋を出た。