□ 身に余る、好意 □
2人しかいない静かな空間に、自分の心臓の音が聞こえる。
大人しくシャカが話すのを待っていると、少ししてシャカは静かに語り始めた。
「サガの乱の時、アテナは言った。愛のある世界だから、護ると。愛の無い世界など滅びればいいと……。正直に言えば、愛などわからぬ。なぜ、アテナについたかと言えば……ただ、正義がアテナにあると思ったからだ」
至極当然なことを語るように、シャカが静かに言い放った言葉に驚きを隠せなかった。
沙織ちゃんは……アテナは、そんなことを思っていたなんて。
そしてその言葉は、愛を知っているからこそ言える言葉なんだと気づいた。
「愛のある世界……アテナが、望む世界」
自分に言い聞かせるように呟いた言葉は、まだ曖昧な感覚で、ただ呆然とシャカを見ているとシャカの瞳に穏やかさが宿った。
瞳に宿る色彩も、雰囲気も全く違うのに……この穏やかさを秘めた瞳を、たしかに知っている。
「だが、今なら……愛というものが、私にも理解できる。愛おしいという感情も……胸の奥深くから、湧いてくる」
「……な、んで?」
聞いてはいけないと、どことなく本能的に解っているのに聞いてしまった。
まるで怖いもの見たさに近いような、危険な領域に好奇心で踏み込んでしまうような……そんな、危うい心境。
「なぜかと問われれば……なに、簡単なこと」
心臓が、煩いくらいに音をたてる。
もしかして危惧している事態とは違うのかもしれないと、ほんの少しの可能性にすがるようにシャカの言葉の先を待つ。
「……私が、君を愛しているからだ」
全ての時間が止まったような感覚だった。そして唐突に気づく。あの瞳に秘めた穏やかさは……愛おしみの穏やかさ。
たまにムウがしている瞳にとてもよく似ていて、どこまでも愛おしいと、物語っていたからだ。
「……どうして、私なの?」
ぽつりと出た言葉はそれだけだった。
まだムウのことも答えが出てないのに、シャカまでどうしてと、頭が混乱しそうになる。
「私にも解らぬ。ただ、側に居るのが心地良いと……初めは、それだけだったが。そのうち、放って置けなくなった。いつのまにか、触れてみたいと……」
腰に回された手に引き寄せられて、頬を撫でていた手が肩から背中へと滑っていく。
気づけばシャカの胸の中へと抱きしめられて、温かなぬくもりに微かにお香の匂いがした。
なぜかムウに抱きしめられたときを思い出してしまい、どうしてと、なんでと頭の中がいっぱいになりそうだった。
「そのような感情が私にもあるのかと、人に先を越されてから気づくとは……このシャカ、思いもしなかった」
労わるように髪を撫でる手が、ひどく優しくて、自然に視界が潤む。
シャカの持っている小宇宙の影響かまではわからないけれども、何かに包まれるような、安らぎのようなものを感じた。
そっと目を閉じると、頬を涙が流れる。シャカに対しての気持ちと、ムウに対しての気持ち。
その違いは明瞭なのに、とても似ている気がする。それが何なのか、もう少しのところまできているのに掴めそうで掴めない。
「っ……わからないの……っ自分のことなのに」
「、別に君を困らせたいわけではない。ただ、私の想いを知って欲しかった……」
きっとシャカは答えを求めているわけじゃない。
そう思うと、少しだけ安心した。でも、それはダメなんだと自分自身でも気づいている。
シャカの気持ちを利用して、甘えてるだけなのと何も変わらない。
「シャカ……今は……ううん、もう少しだけ時間が欲しいの」
「なに、私は気にしない。いつかきっと、おのずと答えが出るであろう」
控えめに扉を叩く音が聞こえた。
誰かが来たのだと気づいて、慌ててシャカから離れようとシャカを押しやると、思いのほか簡単に離れてくれた。
返事を返すと扉がすぐに開いて、アイネが扉を開けて入ってきた。
アイネはシャカに気づくと"シャカさまも?"と訝しげに漏らすと、慌てたように会釈をする。
「あの、さま。お時間の方はよろしいのですか?教皇さまがお待ちのはずですが……」
「あっ!そうよ!シオンさまに呼ばれていたんだったわ」
「ふむ、それは急いで行った方がいいな」
部屋を出るために急いでベッドから立ち上がると、アイネが慌てたように駆け寄ってくる。
不思議に思って立ち止まっていると、自分の目の部分を差していた。
「あの……目が、少し赤いようですので、冷やした方がよろしいです」
「え……あ、そうね」
「、私は先に教皇の間へと向かう。まだ、任務完了の報告をしていないのでな」
「うん。行ってらっしゃい、シャカ」
シャカは返事の代わりに微笑むと、部屋から出て行った。
普段の上から目線の微笑みと違って、とても柔らかで、不意打ちのせいもあって思わず胸が高鳴る。
窓を開けて空気を入れ替えるふりをしながら、外の風で少し火照る顔を冷やした。
「あの……さま、冷やしたタオルを、お持ちしました」
「ありがとう、アイネ。そういえば、さっきシャカを見て"シャカさまも"って言ってたけど……」
「い、いえっ……そのっ、さまの目が少し赤かったので……シャカさまが、何か悲しませるようなことをおっしゃったかと、思ったんです」
椅子に座り目を閉じると、アイネから受け取ったタオルを閉じた目に乗せる。
ひんやりとしたタオルは、少しだけ熱を持った顔を冷やしてくれて気持ちよかった。
「違うの、シャカは悪くないの。ただ、私が混乱してただけなの」
「そ、それは……やっぱり、ムウさまのことで……ですか?」
そこまで言われて気づいた。ムウと女官が話してのを見て逃げた時に、この子も一緒に居たんだったという事に。
それで勘違いしてしまったのも仕方ないことだと溜息を吐いた。
「それもあるけど、もっと別のこと……なんで、私なんだろうって思っただけ」
「何を言ってるんですか?さまは、殿方が放っておけないほどに……とても、お美しいです。アテナさまの巫女の噂ではお聞きしていたのですが、実際にお会いして、とても美しくて驚きました」
聞きなれない"美しい"という単語に戸惑ってしまう。
もう目の赤みも引いただろうと思い、タオルをとってアイネの方をちらりとみる。
アイネはそれに気づかずに、両手を合わせ軽く目を伏せると、どこか恍惚とした表情で語り始めた。
「神秘的に光を反射させる美しい黒髪に、白く滑らかな肌、影を落とす長い睫に薔薇色の艶やかな唇……それに加えて、すらりとした手足に女性らしい体つき。いつも背筋を伸ばして、凛とした姿勢で立っていて……なんというか、雰囲気……纏っている空気が、他とは違うんです。見ているだけで特別な方なんだ、と思いました」
今まで外見なんて仮面で隠してたので気にしたこともなかったけれど、たとえ贔屓が入っていたとしても、ここまで誉められると恥ずかしくなってくる。
それに特別とか言われても聖闘士なんだから、一般人と一緒にされては困る。けれど今のアイネには言いづらい。
そもそも、この子はこんな子だったっけと疑問すら出てくる。
「あ、ありがとう。でも、少し誉めすぎよ?」
「そんなことはないです!あっ!もちろん内面も素敵です!強くて、凛々しくて、優しくて……アテナさまが、さまを巫女に選んだ気持ちが、とてもわかります」
どこかうっとりと話すアイネに意外な一面をみた気分になった。
このまま放っておくと、話が止まらなくなりそうな気がして、なんとか話題を変えようと試みる。
「アイネ、そろそろシオンさまのところに行きましょう?」
「あっ……す、すみませんっ……私ったら、つい……その、語ってしまって」
「ふふっ、気にしなくていいわよ。アイネの気持ちがよくわかったしね」
アイネは、語りすぎたことが恥ずかしかったのか頬を染めて俯いた。
それだけならとても愛らしいのにと思って苦笑すると椅子から立ち上がる。
まだ照れているアイネに声をかけると、部屋から出て今度こそ教皇の間へと急いだ。