□ 蜜後 □



心地よい眠りを邪魔するように、窓から入ってくる光が瞼を通して眩しい。
そろそろ起きないといけないと解っていても、眠くて身体がとても気だるい。
もう少し眠っていたかったけれど、誰かが髪に触れているらしくて、くすぐったい。

「ぅ、ん……なに」
?起きたのですか?」

薄っすらと瞼を空けて見ると、翡翠色の瞳と目が合った。
くすぐったかったのは、覗き込むように座っていたムウに髪を弄られていたからだった。
いったい人の髪のどこが楽しいのか解らないけれど、なんだか心地良いから何も言えない。

「ムウ……おはよう」
「おはようございます。体が辛かったら、もう少し眠っていても良いですよ」

睡眠を促すように優しく頭を撫でられると心地良くて、つい目を閉じてしまう。
そのまま眠ってしまいたくなるけれど、このまま寝るといつまで経っても起きれる気がしない。
なんとか気力で目を開けると、寝返りを打つように横に向いた。

「ううん、そろそろ起きないと……」
「そうですか……もう少し、とゆっくりしたかったのですが……」

ムウは穏やかな口調で話しながら、頭を撫でていた手を耳の辺りにまで滑らせると、耳にかかった髪の毛を遊ぶように指に絡ませる。

「私の髪なんか弄ってても、楽しくないでしょう?」
「いえ、楽しいですよ。……きっと、のだから楽しいのでしょうね」
「なに、それ……」

ふと目が会うと、くすくすと2人で笑い合う。
その甘く穏やかな雰囲気を壊すように、いきなり空腹を訴える音が自分のお腹から響いた。
規則正しい生活をしていたせいで、すっかりお腹はご飯の時間を覚えてしまったらしい。
さすがに恥ずかしくなり、毛布を頭から被って隠れた。

、少し待っていてください。何か作ってきますね」

微かにベッドが揺れ、ムウが部屋から立ち去ったのがわかった。
このまま眠ってしまうと、きっと1日中この部屋で過ごしてしまいそうな気がして、なんとか起き上がると服を探した。
少しして、着ていた服がベッドサイトにきちんと畳まれて置いてあったのを発見した。
急いで着込むと、体に多少の違和感があったけれど気にせずに、美味しそうな匂いのする方向へと向かった。

「ムウ?」
、どうかしたのですか?」

台所の方から声がしてきて、台所で何かを作っているのだと気づいた。香ばしい匂いが辺りに充満していた。
この匂いは、きっとお肉を焼いてる匂いだと思い、ムウのいる台所の方へと吸い寄せられるように向かった。

「あのままだと、なんだか眠っちゃいそうだったから来たの」
「そうですか。そのまま眠ってくださっても良かったのに」
「今日は出かける予定なんだから、ずっと眠ってるわけにもいかないでしょ?」

久しぶりにムウと出かけれるのに、このままだと本当に休日を白羊宮で過ごしかねない。
茶化すように微笑みかけると、幸せそうに微笑み返されてしまった。

「その時は、ちゃんと起こしてあげますよ」
「あ、ありがと……」

あまりに幸せそうに微笑まれると、どう反応したらいいのか解らなくなってしまう。
つい視線を逸らしてしまい、話題を変えるように話を振った。

「そういえば、焼いているのってお肉?なんだすごく美味しそうな匂いがするんだけど・・・…」
「アルデバランからお土産にと頂いた牛肉ですよ。少し傷みかけていたので、香草焼きにして頂こうかと」

とても香ばしい匂いと美味しそうな音が食欲を誘ってきて、ついムウの手元を覗いてしまう。
分厚い牛肉がタイムやローズマリーなどの香草と一緒に焼かれていて、美味しそうだった。
返事するのを忘れて見入っていると、ムウは何か勘違いしたらしく、こちらの方に振り向いた。

「もしかして、赤ワインの牛肉煮込みの方が良かったですか?……そうすると、時間がかかってしまいますが……」
「ううん、こっちでもすごく美味しそう」
「そうですか。もう少しで焼きあがりますから、座って待っていてください」

言われたとおり食卓のほうへといくと、もうすでにサラダやパンや飲み水も準備されていた。
何もすることなかったので、とりあえず小皿を取り出してサラダを取り分け、コップに水を注いでナイフやフォークを並べてみた。
少しして料理が出来上がったらしく、ムウが盛り付けの終わったお皿を持ってきた。

「これは……手伝ってくれたのですか」
「まあ、ほとんどすることなかったけど……」
「いえ、これで充分ですよ。……それにしても、」

急に黙り込んだムウに、何かおかしなことでもしたのかと少し不安になった。
でもすぐに、ムウはクスっと意味深な笑みをこぼした。

「ムウ?何か変だった?」
「こうしていると……まるで夫婦みたいだと思いませんか?」
「ふっ、夫婦?!……ぇ、あの、それは……料理をしているのがムウだから逆というか……?!」

同じベッドで寝てたとか2人で食事の準備とかをあまりにも自然にしてしまって、考えてみれば、だんだんとそんな気がしてきた。
仮面を付けていた女聖闘士だったころは、そんなことは微塵も考えたことが無かった。
そのせいか、かなり恥ずかしいのに、なんだか嬉しいようで、むず痒いようで複雑な心境になる。
完全に挙動不審になっているけれど、もう少し心の準備というものがほしい。

「その……えっと、まだ、ちょっと気が早いような……」
「それは、私とのことを考えていてくれていると……そういうことでいいですか?」
「しょ、将来的には……」

ムウの顔をまっすぐに見れなかったけれど、返事を返すように何度か小さくうなづいた。
さすがにその時の感情だけで、体を許すことはしない。
大好きだし、ずっと一緒にいたいという想いもある。

「そうですか……」

ふと見てみると、ムウは嬉しそうに翡翠色の瞳を細めてこちらを見つめていた。
恥ずかしさのあまりすぐに視線を逸らしてしまったら、ムウは"まあ、逃す気はまったくありませんが……"と、独り言のように呟いた。
自然と嬉しいという気持ちが溢れてきて、ほんのりと顔が熱い。
ムウは手に持っていたお皿をテーブルの上に置くと、どこからか取り出した小瓶を手渡してきた。

、これを……」

渡された小瓶を見てみると、飴玉のような形をした琥珀色の粒がいくつも入っていた。

「これって……見覚えがあるような気が……」

昨日の夜、情事の最中にムウに飲まされたものと同じものだと気がついた。
たしかカプセル状で噛んでみると、ほんのりと苦くて甘い液体が口の中に流れ込んだ記憶がある。

「もしかして、昨日の?」
「ええ、まだ少し早いかもしれませんし……それになにより、の心が決まるまでは必要だと思ったのです」

なんとなくだけれど、ムウが何を言いたいのか解った。
つまり、これを飲まなければ身篭ると……しかも飲む飲まないの判断は自分で、ということらしい。
思わず小瓶を見つめていると、ふいにムウが耳元に近寄り呟いた。

「事に及んでから三日以内なら、効果はありますよ」

ふいにムウが、情事の最中を思い出させるような妙に艶のある笑みを浮かべた。
どんどんと顔の熱が上がっていくのを自覚してしまうけれど、どうすることもできない。
ムウは気づいたらしく、どこか悪戯っぽくクスリと笑った。

「え、あの、その……ありがと」
「どういたしまして。、そろそろ食事を頂きましょうか?せっかくの料理が冷めますし」
「そうね。すっかり忘れるところだったわ」

小瓶を裾の中に仕舞うと、急いで席に座った。
ムウが向かいの席に座るのを確認すると、両手を合わせてから食事に手を付け始めた。

「うん、すごく美味しい」
「それは良かった。起きたばかりだったので、肉類はどうかと思ったのですが……」
「ふふっ、そんなことないわ。朝はしっかりと食べないと、元気がでないしね」

食べてみると思っていたよりも柔らかくて油っぽくなかった。
それにほどよく塩味が効いて肉の旨みが引き立っていて、香草の香りも食欲を誘ってくる。
美味しすぎて、食事がどんどん進んでいった。
さすがに何も話さずに食べるだけというのも気まずくて、なんとか話題を出した。

「でもアルデバランって……たしか牡牛座よね。なんで牛肉を?」
「任務に行った先で、お礼だと言われて貰ったそうですよ。あげた相手も、きっと牡牛座の聖闘士だということを知らなかったのでしょう」

たしかにアルデバランの性格なら、お礼と言われれば受け取るかもしれない。
でも自分の守護星座と同じ動物のお肉って……共食いみたいですごく食べにくいような気がするけれど、それはそれでシュールな光景なような気がする。

「牡牛座に牛肉って……自分の守護星座と同じって食べにくくないのかしら?」
「もしそれが嫌がらせの類なら考えますが……親切で頂いたものなら、ありがたく頂きますよ」

ふとシオンさまとの食事を思い出した。
たしか羊肉系の物は食べてなかったような気がするけれど、それ以前に食卓に上がったことが無い。
きっと料理人が気を使ったのかもしれないけど、もしかして本人が遠慮するという可能性も捨てきれない。

「つまり、ムウやシオンさまにラム肉をあげても全然問題ないってこと?」
「もちろんです。ですが、わざわざラム肉を用意しなくてもいいですよ」

ほんの少しだけ、ラム肉のソテーを出してみようかなとは思ったけれど、さすがに先に釘をさされるとは思わなかった。
なぜかとても良い笑顔でこちらを見つめるムウの視線に耐え切れず、視線を逸らしてしまう。

「え、いやそんなことは……たぶん、無いかな……」
、目が泳いでますよ」
「あ、あはは……大丈夫大丈夫、しないから」

思わず笑ってごまかしてしまったけれど、ムウにため息をつかれてしまい、これは絶対に気づいていると確信してしまった。
何か言われるかもしれないと思っていると、それ以上は追求することなく食事をすすめはじめた。

「私もシオンも……の出してくれたものなら、絶対に食べますよ」
「え、急にどうしたの?」
「シオンにの手料理を出されるのは癪ですから……もし試したいのなら、私にしてください」
「う、うん」

妙に真剣に話すムウが不思議で、押し切られるように頷いてしまった。
もしかして、こっそりシオンさまに出すのかもしれないと思われたのかもと気づいた。
さすがにちょっとした好奇心で、そこまではしないけれど、とりあえず返事をするとムウの表情が和らいだ。

「ムウ、本当にちょっとした好奇心だから気にしないで」
「たとえ好奇心でも、もしもの可能性があるのなら……先手を打ったほうがいいでしょう?」
「そ、そう」

どう返事をしたらいいのかわからなくて、つい曖昧に答えてしまった。
ふいに誰かが来た気配を感じて、扉の方に視線を向けると同時にムウが立ちあがった。

「誰か来たようですね」
「いったい誰かしら……」

聖闘士の小宇宙と違って、まったく鍛えられていない小さく薄い小宇宙で一般人だとわかった。
もしかして通行人かもしれないと思ったけれど、この小宇宙には覚えがあった。

「もしかして、アイネ?」
「何かあったかもしれません」

アイカテリネが来たということは何かあったのかもしれない。
食器を片付けると、急いでムウを連れて白羊宮の通路へと向かった。
気配を辿るように通路をまっすぐに歩いていると、すぐにアイカテリネを見つけた。

「アイネ、どうかしたの?」
「あっ、さま!こちらにいらしたのですね!」

かなり急いできたらしく、アイカテリネは息を切らして駆け寄ってきた。

「あのっ!アテナさまが、お見えになっております!」
「え?沙織ちゃんが?」
「はい。さまの部屋でお待ちいただいておりますが……どういたしましょう?」
「ありがとう、すぐに部屋に戻るわね」

ムウに自室に戻ると言うために後ろを振り返ると、ムウがすぐ後ろにいて少し驚いた。
思わず距離をとるように離れようとすると、ムウに両肩を捕まえられた。
なぜか逃がさないといわんばかりに、がっしりと両肩を捕まえられて身動きが取れない。
やっぱり置いて行こうとしたのが、まずかったのかもしれない。

「えっと、ムウ?」
、私も行きます。どちらにしても、今日は私と出かける予定でしょう?」

ムウは笑みを浮かべていたけれど、そこに有無を言わせない何かを感じとってしまった。
うっかりここで断ると、後がややこしいことになるかもしれないと、冷や汗をかいてしまった。

「う、うん。ごめんね。じゃあ部屋に帰ろっか……」
「ええ。アテナも待っていますし、帰りましょうか」

返事に満足したらしく、肩を掴んでいた手を離してくれた。
急いでムウとアイカテリネを連れて、3人で沙織ちゃんが待っている自室へと戻った。