□ 逡巡。□



腕の中で泣き付かれて眠っている彼女は、とても痛ましかった。そしてここまで思えてもらえる彼女の師に少し嫉妬してしまう。
このままでは身体を冷やしてしまうと思い、抱えなおして運ぼうとした時に、黒い髪に映える白い薔薇が視界に入った。
なぜかその白い薔薇が気になった。彼女から漂ってくる薔薇の香りも、アフロディーテをどことなく思い出す。

「これも邪魔ですね……取ってしまいましょうか」

完全に眠ってしまっているようで、彼女からの返事は無い。
それを良いことに、白い薔薇を黒髪から抜き取ると、そのまま滝壷へと放り投げる。
白い薔薇が滝壷に吸い込まれるように消えていくのを見届けると、彼女の膝に手を差し込み抱きかかえる。
立っている岩を降り、その場を後にしようとするとさっきの女聖闘士が姿を現した。

「ちょっと待ちな。その子をどうするつもりだい?」
「連れて帰ります。このままここに居ても仕方ないでしょう?」
「連れて帰るだって?はっ!どこに連れて行くのか怪しいもんだね。あんた、その子に気があるだろう?」

ここで返事をするのはとても簡単だ。
けれどもし、この女聖闘士から彼女に伝わった時を考えると、あまり得策ではないと判断できた。

「寝込みを襲うほど、落ちぶれてはいません。アテナの名にかけて、きちんと聖域に返しますよ」
「アテナの名にねぇ……ま、いいさ。あんたも聖闘士なら、その言葉を裏切るなよ」

返事の代わりに視線だけ送ると、この場から離れるために足を進める。
すれ違いざまに、呟くように女聖闘士が言葉を漏らした。

「そいつは……本当は聖闘士になるべきじゃなかったんだ」
「知っていますよ。彼女は、純粋で優しすぎる……そして、とても気高い」

幼い頃の彼女を思い出す。本当に純粋の塊のような、普通の女の子で……とても、暖かかった。
あの頃は、近くて遠い存在で、諦めていたのに。手が届く今は、笑顔ひとつすら見せてくれない。

「そいつのこと、大事にしなよ」
「もちろん、大切にしますよ」

そのまま真っ直ぐに白羊宮を目指して歩く。
本当は、彼女の住んでいる教皇宮に運ぶのが一番だとはわかっていても、弱りきった彼女を誰にも見せたくなかった。
それが自分の独占欲からきていることも解りきっていた。白羊宮の奥の部屋へと運ぶと、そっと寝床に寝かせる。
彼女の顔にかかった僅かな髪を払い落とそうとした時に、目じりに涙が溜まっているのを見つけた。

「っ…ば…おすぅ…せん、せ……」

呻くように小さく呟いたのは、きっと彼女の師の名前だろう。
彼女の中で、どこまで師の存在が大きくなっているのかを垣間見た気がした。
それがとても面白くなくて、彼女の中に存在できるのは自分だけでありたいとさえ思った。

「私が、居ます……だから今は、忘れなさい」

涙の溜まった目じりに口付けると、溜まっていた涙を吸い上げる。彼女は少しだけ身じろいだが、起きなかった。
それに安堵感と、なぜか少しだけ残念だと思ってしまった。今、彼女が起きても普段のように接する自信がない。
無理にでも関係を持ってしまえば、彼女の中できっと消えない存在となるだろうかと、そんな馬鹿げたことがほんの少しだけ、脳裏をよぎったからだ。
気分を落ち着けるために、彼女が小さな頃に好んで飲んでいたホットミルクでも作ろうと思いつき、そのまま部屋を後にした。




fin.