□ 至上の愛 □



今日の沙織ちゃんは、いつもに増してすごく機嫌が良い。
きっと何か楽しかったことでもあったのかもと思って、気にせずに食事を進めていると、ふいに視線が合った。
その瞬間にニコリと微笑まれてしまい、なんとなく微笑み返してしまう。

「それにしてもお姉さま、ずいぶんと大きな蚊に吸われたみたいですね」
「え!?蚊って、いったいいつの間に……痒くなかったから気づかなかったわ」

どこを噛まれているのか探していると、なぜかシオンさまが珍しく咽返っていた。
あまりにも咳き込むので食べ物でも喉に詰まらせたのかもしれないと、少し心配になってシオンさまの方を見る。

「シオンさま大丈夫ですか?」
「あ、ああ……気にせずとも大丈夫だ」

ふと沙織ちゃんが現れる寸前のシオンさまの行動を思い出してしまった。
まさか沙織ちゃんの言っている蚊に刺された跡って……もしかしてあの時に首筋に跡を付けられていたとか?そんなことを考えつつ、シオンさまが吸い付いていた辺りに手を伸ばすと、沙織ちゃんから小さな笑いが漏れた。

「お姉さまの子供が女の子でしたら、次代の巫女誕生ですわね」
「ア、アテナ?!」

沙織ちゃんの爆弾発言に頭の中が一瞬止まってしまい、思わず凝視してしまう。
シオンさまも普段と違い、目に見えて動揺しているらしくテーブルに両手をついて軽く立ち上がっていた。

「ちょっ、ちょっと沙織ちゃん?!いったい何の話なのっ」
「ふふっ……たとえばの話です。それとも、何か心当たりでも?」

沙織ちゃんは微笑みながら、それはそれは可愛らしく首をかしげているけれど、絶対に何か気づいている。
シオンさまにいたっては、何かを考え込んでいるらしくて、完全に固まっていた。

「こ、心当たりなんてそんな……私は、アテナの巫女なのに……」
お姉さまは、何か勘違いをなさってませんか?わたしの……アテナの巫女になったとはいえ、恋愛を禁じたつもりはありませんよ」

意外な言葉に驚いて沙織ちゃんの方を見ると穏やかに微笑んでいた。
思わずそのまま黙り込むと、沙織ちゃんは静かに口を開いた。

「愛を知っていてこそ……守れるべきものがあると思いませんか?愛を知らずに愛を謳えますか?」
「沙織ちゃん……それじゃあまるで……」

そう、愛がどういうものかを知っていると言っているようなものだった。
沙織ちゃんは返事の変わりに微笑んだ。

「神話の時代、唯一ハーデスに傷をつけた聖闘士をご存知ですか?」
「え、ええ……一応は。たしかペガサス座だったと聞いたわ……」
「そう、ペガサス……神話の時代から続く聖戦。その聖戦には、常にアテナのそばにペガサスがいました」

"ペガサス"という言葉を出すとき、沙織ちゃんの表情はとても柔らかくて幸せそうだった。
それだけで、どれだけ大切なものなのかが手に取るようにわかった。

「今のペガサスも、前聖戦のペガサスも……魂は全て同じものです」
「それって……つまり、ペガサスは生まれ変わっても、またペガサスの聖闘士としてアテナの傍にいたってこと?」

沙織ちゃんは、それが正解と言わんばかりに静かに微笑みながら頷いた。

「私に受け継がれている記憶はおぼろげですが、感情と感覚は確かなもので……ペガサスが危機を救ってくれた時に、確信を得ました。……彼は、神話から続くペガサスなのだと……」

沙織ちゃんは、今まで見たこともないくらい、幸福に満たされるような穏やかな表情で語っている。
生まれ変わっては、またアテナに使える。神話の時代から続くペガサスとアテナに強固な精神の繋がりを感じた。

「そうして聖戦の中で、どれほど不利な状況の中でも、ペガサスが助けに入るだけで心が温かくなり……まだ、がんばれると……そう、彼は常に諦めない心と勇気を私に与えてくれたのです」

神話から繰り返えされる聖戦。アテナの降誕は聖戦の前触れとも言われているけれど、戦いの女神である彼女は、常に戦いと共にあるとしたら……。
たとえそれが存在理由だとしても心というものがある限り、終わらない戦いは何のための戦いなのだろうと……揺らがないことがなかったわけじゃないと思える。
神話の時代から繰り返される聖戦と転生の中で、彼女は何を感じていたのだろうと……ふと、思った。

「常に傍に居てくれる。そうして支えてくれる……それだけで、どれほど救われたのか……。そうしてアテナである私も、この世界を失いたくないと……いつの時代からか強く願うようになったのです。そう、父であるゼウスから地上の全権を委ねられたことへの義務ではなく……アテナである私自身の意思で、この世界を……愛のある世界を守りたいと……」

そこでふと、シャカが言っていた言葉を思い出した。サガに向かってアテナが言った言葉は、愛の無い世界など要らないと……ずっと昔、神話の時代から続く時の中で、それが得た答えだったのだろうと気づいた。

「ですからお姉さま、心に決めたお相手が出来た場合は……こっそりわたしに教えてくださいね?」
「なっ……」
「こっそりって……そんな……」

いきなり話の内容が変わり戸惑ったけれど、言われたことを理解した瞬間、ふとムウを思い出して顔に熱が篭る。
思わず視線を左右に挙動不審に動かしてしまう。だんだんと恥ずかしい気がしてきて、そのままちょっとだけ俯いてしまった。
明らかな同様ぶりに、シオンさまも沙織ちゃんも何かを察してしまったらしく、2人とも違った反応をしていた。
沙織ちゃんは、なんだか楽しそうなにこやかな笑顔だったけれど、シオンさまは微かにナイフとフォークを持っている両手が震えていた。

……まさか……」
「ふふっ……時間の問題ですね」

これは問い詰められる気がして、なんとか話の流れを変えないとと思った。
とくにシオンさまは、なんだかいつもにまして話しに食いついてくる。

「ご、ご飯を食べましょう!ほらこのカボチャのスープとっても美味しそうですよ!」

急いでカボチャのスープを口に運ぶと、ひんやりとした冷たさにカボチャ独特の香りとほんのりとした甘さが口の中に広がる。
これで誤魔化しきれなかったら、次はどやって誤魔化そうかなと考えていると、沙織ちゃんがくすくすと笑みを零し同じようにカボチャスープに手を伸ばした。

「そうですね、今は食事を頂きましょう」
「ですがアテナ……っ」
「シオン、そんなに焦らなくてもいつかはわかることですよ……ふふっ、それにお姉さまは、とてもお美しいのに、そういったお話が全く無かったのが不思議でしたけれど……少し安心しました」

これはもしかして、沙織ちゃんは結構楽しんでいるんじゃないかと思い始めた。
沙織ちゃんに、ちらりと普通の10代の少女の片鱗を見た気がした。
それに聖闘士ではなく普通に育っていれば、私も人並に恋話に興味を持っていたのかもしれないと考えると、なんとも言えない気分になった。