□ 大切なモノ □
沙織ちゃんもシオンさまも帰ったのを見届けると、部屋のベッドに腰掛けて背伸びをする。
窓から入ってくる明かりもずいぶんと少なくなっていて、あと少しで日が完全に沈むところだった。
夕食までの時間まで、ゆっくりとベッドに横になろうと身体を沈めていると扉を叩く音が聞こえた。
返事をすると扉が開いて、見知った二人が入ってきた。
「、失礼するよ」
「よぉ、嬢ちゃん。元気にしてたか?」
「あら、アフロディーテと……ヘンタイ蟹」
思わず蟹のところだけ、声のトーンが下がる。
それに気づいたアフロディーテは、少し驚いたように蟹に視線を送った。
「デスマスク、おまえいったい何をしたんだ?」
「あー……まあ、ちょっとな」
「ちょっとじゃないわよ。失礼にもほどがあるってこと知ってる?」
「軽く胸を揉んだだけじゃねーかよ」
悪びれもなく言い放つ蟹に、顔が引きつった。
アフロディーテは呆れたような溜息を零すと、こめかみを押さえていた。
「何をやってるんだ、おまえは」
「でもよ、そんなに過剰反応するってことは……」
何かを含ませるように、言葉を止めた蟹をアフロディーテと二人同時に視線を向ける。
蟹はまるで悪巧みを思いついたような、にやりと音がしそうな笑みを蟹が浮かべていた。
「嬢ちゃん、処じぁっぶっ「このヘンタイ蟹っ!」」
下劣なことを言おうとした蟹に、今までの最高速度を更新して光速に達したと思えるスピードでアッパーを決めた。
蟹は綺麗に空中へと飛んで、無様に落ちる前に黄金の意地で体勢を整えて着地した。
「ってぇーっ!なにすんだよっ」
「今のはデスマスクが悪い。まったく、女性に向けて言う言葉じゃないだろう?」
「俺さまにとっちゃあ、ほんの挨拶みたいなものだぜ?」
「どんな挨拶よっ!まったくもうっ。そういえば、二人ともどうしたの?」
「あ、ああ。、私たちに少し付き合ってもらってもいいかい?」
もう日も暮れようとしている時間のお誘いに、不思議に思いながらも頷くとアフロディーテは嬉しそうに微笑む。
美人の綺麗な笑みに思わず魅入りかけてしまって、慌てて視線を逸らした。
「それで、どこに行くの?」
「ふふっ、着いてきてみたらわかるよ」
「お楽しみってやつだな」
右にアフロディーテ、左に蟹という形のエスコートで部屋から出ると、そのまま教皇宮から出て二人に任せるように進んだ。
進んだ先は双魚宮の方で、そのまま宮へと案内されて奥へと進むと1つの扉の前で止まった。
恐る恐る扉を開けると、部屋の中には黄金達が揃っていて、テーブルには美味しそうな料理が並べられていた。
「やっと来たか、。この私を待たせるとは、君くらいなものだ。もっと精進したまえ」
「え、あ、ごめんね。シャカ」
「遅れてすまないね。少し世間話をしていたんだよ」
どうみても宴会をしようという雰囲気だけれど、別に何かの記念日というわけじゃない。
だったらこれはいったい何の準備なのかと悩むが、聞くほうが早いと気づいてアフロディーテにたずねた。
「今日って何かの記念日なの?」
「別に記念日ってわけじゃないさ。ただ、たまにはこういうのも良いんじゃないかってことになっただけだよ」
背後から肩に誰かの手が乗ってきて、驚いて振り返るとミロとカミュがすぐ側に立っていた。
「そうそう。気にせずに今日は楽しもうぜ、」
「ああ。ミロの言うとおり気にすることはない。楽しめばそれで良い」
心なしか上機嫌なカミュと楽しそうなミロから少しだけワインの匂いがした。
よく見ると食卓の真ん中に氷の入ったバケツが置いてあって、その中にワインが数本、無造作に放り込まれてた。
「二人とも、あのワイン飲んだの?」
「ん、ああ。カミュが上物を仕入れてきたんだ。こんなことはめったに無いからな。しっかり飲んどけよ、」
「どれも濃厚でフルーティーな味わい深いワインだ。きっとも気に入るだろう」
「ありがとう、カミュ、ミロ。凄く楽しみだわ」
食事をするために席に着こうと思ったけど、どこの席に着けばいいのかわからない。
悩んでいると、ふいに視線を感じた。その視線を感じた方を見ると、目を閉じたままのシャカと視線があった。
シャカはもう席についていて、腕を組んで座っていた。
「、私の横に座りたまえ。遠慮はいらん」
「うん。ありがと、シャカ」
なぜかシャカの両隣の席が空いていて、どっちにしようかなと考えていると腕を引っ張られた。
振り向くとムウが座っていて「こちらに」と、ふんわりとした微笑みで言われ、なぜか胸が高鳴ってどこか恥ずかしい。
恥ずかしさから逃れるように、さっさと席に着くとコップに入っていた水を一口飲んで気分を落ち着けた。
「そ、そういえば、修復の仕事は大丈夫なの?」
「ええ。急な用事もありませんし、終わらせる仕事はきちんと片付けてますよ」
「そう。それにしても美味しそうな料理ね。早く食べましょうか」
目の前の海鮮パスタをフォークに巻きつけて口に運ぶと、海の味が口に広がる。
サラダも自家製ソースがかけられていて、さっぱりとして後味を引かない。
グラタンもホワイトソースの濃く滑らかな味わいが一品だった。
どの料理もきちんと基本とポイントが抑えられていて美味しい。思わず顔が緩んでしまう。
「なにこれ、凄く美味しい……」
「うむ。たしかに美味いが、私はの料理の方が口に合う」
「そ、そう?シャカにお気に召してよかったわ」
「いっそうのこと、毎日処女宮にまで作りに来ないかね?」
シャカの言葉に、毎日お味噌汁が飲みたいという定番の古めかしいプローポーズを思い出した。
あのシャカに限ってまさかと驚いていると、ムウも驚いてシャカの方を見ていた。
「シャカ、貴方いったいどこで、そういった言葉を覚えてきたのですか?」
「覚えるも何も、私は思ったことを言ったまでだ」
シャカはワイングラスに口をつけて飲み干すと、何事もなかったように料理をまた口に運び始める。
その光景に、きっと彼は本当に思ったことをそのまま言っただけなんだと納得する。
そんな正直なところがシャカらしくて、くすりと笑みがこぼれる。料理を美味しく食べていると、後ろから声をかけられた。
「少しは元気が出たか?」
「サガ。こんな時間にサガが居るなんて、珍しいね。いつもシオンさまと仕事に追われてるのに」
「ははっ、さすがに毎日というわけじゃないぞ。それに最近の教皇は、なぜか仕事をまともにこなしていてな、私の胃痛も治まりそうだ」
やっぱり普段のシオンさまは、サガに仕事の大半を押し付けているんだと気づいて、苦笑いしか出てこなかった。
「元気が出たかって……もしかして、今日の宴会って私のために?」
「ああ、みんな照れているようだが……少しでもに元気になってもらえればと思ってな」
サガは笑みを浮かべていて、その回りを見れば黄金達がこちらを見ていた。
みんなそれぞれ反応が違っていて、少し照れたような笑みもあれば蔓延の笑顔を浮かべている人もいる。
「、貴女は一人じゃないということを忘れないでください。私たちが、側にいますから」
「ああ。何かあれば、いつでもこのシャカに話すといい。説法なら得意だ」
「ムウ、シャカ……」
思えば、師の死を知ってからは、ずいぶんと落ち込んでみんなに迷惑をかけたと思う。
沙織ちゃんやシオンさまの今日のお茶会も、この宴会も、私を元気付けるためだと気づくと、心の奥底が暖かな気持ちで満たされる。
みんなの優しさが、苦しいくらいに嬉しかった。そしてみんなが居るこの聖域が、私のかけがえのない大切な場所なんだと涙が溢れてくる。
「っ…ぅ…みんな、っ……ありが、とう……っ」
今にも零れ落ちそうな涙を手で必死で擦っていると、誰かがハンカチを渡してくれた。
それで涙を拭いていると、ムウが横から話しかけてきた。
「この間のことですが、デスマスクも彼なりに反省しているようです。この企画を提案して黄金たちにかけあったのは、デスマスクなのですよ」
「あの蟹が……」
「ええ、それにこの料理も全てデスマスクが作ったものです」
見た目と今までの態度からして、こんなに料理が得意で気を使えるなんて少し信じられなかったけど、ムウが言うなら間違いないと思えた。
ちゃんとお礼を言いに行こうと蟹の席を探して、蟹の側へと進む。蟹も近づいたのに気づいたらしく、こちらにチラリと視線を送ってきた。
「おう、ちっとは元気が出たか?」
「うん。ありがとう、私がんばるね」
「そーかい。最近の嬢ちゃんは辛気くせー顔してたかんなぁ。何があったかなんて無粋なことは聞かねぇーけどよ。その調子でがんばれよ、」
にんまりと笑いながら"がんばれよ"という蟹に、くすりと笑いがこみ上げてくる。
きっと彼はこういう性格なんだと思うのと同時に、と名前を初めて呼んでもらえて、なんだかくすぐったくて嬉しかった。
「ふふっ。本当にありがとう、デスマスク」
久々にデスマスクと名前を呼んだら、デスマスクは少し驚いたように目を見開いた後に顔をふいっと逸らせ、また一人でワインを飲み始めた。
もしかしたら彼は柄にもなく照れているのかもしれないと気づくと、なんだか可愛らしく見えて小さく笑う。
デスマスクはそれっきりこっちを向いてくれなくなったので、自分の座っていた席へと戻ることこにして、その場を立ち去った。
自分の席に着くと、集まった黄金たちと久々の賑やかな時間を楽しんだ。