□ ちらつく影 □



闘技場に行く少し前、白羊宮に出向むいて朝食を食べ終わったあと、無理を言って洗い場に立たせてもらった。
お皿に付いた洗剤の泡を落とし、綺麗になったお皿を重ねて置いていると、誰かが扉を開けた音がした。
不思議に思って振り返ると、ムウが丁度こちらに向かっていて、そのまますぐ横に並ぶように立った。

「すみません、。洗い物をしていただいて……」
「いいのよ。朝ごはんをご馳走になっているんだから、せめて洗い物くらいさせて?」
「朝食のことなら、気にしなくても良いですよ。貴鬼の鍛錬のお礼だと思ってください」

ムウは布巾を手に取ると、お皿に残っている水気を布巾で拭いて棚へと戻す。
元々から4人前くらいしかなったため、あっという間に食器が棚へと片付いていった。

「でもそれって、貴鬼くんが私の準備運動に付き合ってるだけで……どちらかというと、私の方がお世話になってる気がするんだけど」
「いえ、貴鬼にとってもとの手合わせは勉強になることが多いはずです。……それに私も、が傍にいてくれると嬉しいのですが……」
「ムウ……」

優美な微笑をたたえながら、どこか熱の篭った瞳を向けられると、動けなくなってしまう。
と名前を呟かれて、腰に手を回され引き寄せられると、微かな期待をこめて自然と瞼を閉じた。
甘い熱を与えられる前に、走ってくるような足音が聞こえるのに気づいた。
これはもしかして、誰かが来るのかもしれないと思い、慌てて両手で押すようにムウから距離を取った。
すぐに扉が勢いよく開かれ、貴鬼くんが駆け寄ってきた。その後を追うように、童虎も現れた。

お姉ちゃん!オイラも手伝うよ!」
「ありがとう、貴鬼くん。でももう終わっちゃったから、また今度ね」

洗い物をしていることに気づいて、手伝うためにきたんだと解ると、なんだか微笑ましい。
貴鬼くんは頭の後ろに手を回すと、残念そうな顔で天井を見上げた。

「ちぇっ、せっかくお姉ちゃんにがんばってるところを見てもらおうかと思ったのに……」
「残念じゃったのう。おっと、もうそろそろ時間じゃ。行くとするか」
お姉ちゃん!早く闘技場に行こうよ!」

貴鬼くんに手を引っ張られて闘技場まで着くと、時間がまだ少しあるので貴鬼くんと手合わせをすることにした。
ここ2,3日、手合わせをしているうちにすっかり調子が戻ってきたらしく、貴鬼くんの動きがはっきりと見えはじめている。
正直、攻撃があたる前に簡単に避けてしまうので、これはあまり訓練にならないんじゃあと思い始めた。

「う~む……これはあれじゃのう、そろそろ本格的に黄金と手合わせさせた方がいいじゃろうな」
「そうですね。の場合は、元々から聖闘士としての素質があるのもありますが……戦闘に対しての飲み込みが早いようですし、期間が決まっているのなら、いっそうのこと白銀を飛ばして黄金で調整をかけつつ鍛えた方が効率が良いですね」

いきなり黄金と手合わせという、すごく心臓に悪そうな話が耳に入ってくる。
せめて心の準備をしてからと思って、急いで貴鬼くんを背後から押さえ込んでムウ達に声をかけようとした直後、入り口の辺りから耳になじんだ声が聞こえてきた。
振り返ると、シオンさまとサガがちょうどこちらに向かっている最中だった。

「ほう、もう始めておるのか……熱心なことだな」
「シオンさま!おはようございます。あれ、今日はサガも一緒なんですか?」

不思議に思ってサガの方を見ると、サガと目が合った。
サガは少し疲労感が漂っているような、力ない笑みを浮かべた。
思わず、なんて言葉をかけたらいいのか悩んでしまった。

「おはよう、。サガが、少しばかり気になることがあるそうだ」
「気になること?」

シオンさまに催促され、サガはシオンさまの後ろから書類らしき紙を持って近づいてきた。
なんとなく事務作業で何かあったのかもと思いつつ、サガの話を待っていると、どこか話しにくそうにサガが口を開いた

「急にすまない。来月の予算配分をするために、経費を見ていたのだが……その、巫女の名目の経費が女神アテナよりも8倍近く多いのだが、これは……本当にが使っているのか?」
「はあ!?8倍?!いくらなんでもそんなこと……ちょっとそれ見せてくれる?」
「あ、ああ。確認してくれ」

サガの書類を見てみると、聖域で働いている人たちの職種分類の最後のほうに各聖闘士とアテナと巫女の分類があった。
そこに雑費と必要経費と食費と支給費等がいくつか記載されていて、たしかにアテナと巫女の合計額が8倍近く違っていた。
いくらなんでも、差額がひどすぎる。あまり沙織ちゃんが帰ってこないとしても、8倍は異常にしか見えない。
とくに必要経費の欄は他の欄と比べてそこだけ5倍近くある。

「これ、必要経費のところが凄く多いんだけど、ちゃんと申請書を出してるのよね?」
「ああ、不思議なことに申請書類は出されている。だから今までは言えなかったのだが……教皇に少し相談したところ、女性は身だしなみに気を使うものだとおっしゃるのでな、そういうものかと思っていたのだが……さすがに額がおかしいのでは、と……」
「まあ、たしかに身だしなみに気を使うけれど……というよりも、強制的に飾り立てられるというか……」

ふと、アイネを思い出した。よく化粧水の他に乳液やら美容液やら香油やらを持ってきては、入浴後に楽しそうに塗りたくり始める。
一度断ろうとすると、やんわりと押し切られてしまい、結局はアイネが満足いくまで大人しくしてしまった。
その時に使用していた量を思い出しても、手の平に乗せて量を調整していたので、そんなには使用していなかったはず。

「ちなみに、最近の申請書はどんな内容できたの?」
「間近に来たのは一ヶ月纏めてとして、化粧水が8本だったな……」

一瞬、何を言ってるのかちょっと解らなかった。
思わず"8本?"と聞き返すと、サガは頷く。
それを見て、頭が痛くなるような気分になった。
たしかに巫女として身だしなみも必要だし、申請書も出されてたら気づかないかもしれないけれど、その数はどう考えてもおかしい。

「ひとつきで8本も使うけないでしょう!朝昼晩使ったってそんなにならないわよ!!それとも落として全部の化粧水が割れる前提なの?!」
「ああ、そういう理由での再申請もあったな……使用不可の為に申請と書かれていたが……」

ふと、なんでもないことを思い出したように呟いたサガに、価値観が違いすぎると感じてしまい、思わず脱力してしまう。
もしかしてサガは男だから、女性の身だしなみと言われてしまえば、どんなにおかしくても気を使って余計に言いづらかったのかもしれない。
そう考えると、サガを責めても仕方ないと思えてきた。

「床……絨毯だから。室内で落としても、そんな簡単には割れないんだけど……それに室内で落として割ったことなんてないわよ」
「そ、そうなのか……では、あの再申請書はいったい……」
「それ、一度よーく調べた方がいいと思うわ」

不思議そうな顔で聞いてきても、答える気力が無くて適当にあしらってしまう。
ただ、シオンさまは珍しくサガを軽く睨んでいた。
もしかしてサガは、書類のことをシオンさまに話していないんじゃあ、と気づいた。

「サガ……おぬし、そういう怪しいものをなぜ先に報告しなかったのだ」
「きょ、教皇……相談は、したつもりですが……」
「ほう、なるほど……あの時、詳しく話を聞かなかった余が悪いのだな……。化粧品やらがアテナより巫女の方が多いと、たしかに聞いたが……」
「い、いえ!滅相もございません!」

サガはシオンさまの機嫌が下がったことに気がついたらしく、慌てて取り繕い始める。
それを見ていると、なんとなくサガが不憫に思えてくる。

「えっと、あの……シオンさま?」
「どうかしたのか、
「……アイネに手伝ってもらえば、どうなっているのかはすぐに解りますし……それに、サガも悪気があったわけではないと思います」
「そうか……。たしかに、怪しいと思い疑問を持っていたのは事実だ。ただ、質問の仕方が悪かったのだな。今回のことは、発覚したということで由とする」

シオンさまは納得したらしく、機嫌が少しだけもとに戻ったようだった。
サガはその様子を見て、少しだけ安堵したように表情を緩めた。
ふと、さっき書かれていた支給がいったい何の支給か気になった。

「そういえば……さっき支給って書いてある項目があったんですが、あれってなんですか?」
「アテナが休みの日にどこかに遊びに行けるようにと、毎月給与の扱いで聖域から少しばかり出ている金銭だが……。……まさかと思うが、貰ってはいないのか?」

聖域から給与が出ていることに驚きだったけれど、どう考えても貰っていない。
それ以前に、金銭に関する話なんて一度も聞いたことが無かった。
もっとも、聖域から出なくても普通に暮らせてしまうために、使う必要が無かったからとも言えるけれど。

「え、一度も貰ったことはありませんけど……」
「女官長経由で話がいっているものかと思っていたのだが……そうか、どこに流れていったのか調査する必要がありそうだな」

シオンさまにしては珍しく、溜息を零すと軽く目を伏せる。
それもほんの束の間のことで、すぐにいつも通りのシオンさまに戻った。

「私はこれから執務室に戻るが……サガ、せっかく来たのだ。軽くの相手をしてやれ」
「御意に」

捨て台詞のようにサガに命じると、シオンさまは闘技場から出て行った。
いきなりのサガとの手合わせに、動揺してしまう。
せめて心の準備というものがほしかったけれど、時間が無いのを思い出して何も言えなかった。
なにより、シオンさまが急に執務室に向かったのは、たぶん私の周りでの不振な動きを調べるためだと、さすがに気づいてしまったから。