□ 戸惑いと願い □



アイネに連れられてシオンさまと食事の席に着くと、普段と何も変わらない些細な出来事や他の黄金聖闘士の任務での話や星読みの話などをして楽しく食事をした。
さっきまでのシオンさまとの空気がまるで嘘みたいで、もしかしたら思い込みすぎてそう感じ取ったのかもしれないと、そう考える。

「ごちそうさまでした。そろそろ、部屋に帰りますね」
「うむ。なら、部屋まで送って行こう」
「え、シオンさま?ちょっ……」
「何をもたもたしておる。ゆくぞ」

シオンさまは率先して立ち上がると部屋へと誘導するように教皇の間の出入り口へと向かう。
それに逆らうわけにもいかず、大人しく部屋までシオンさまに誘導される形で一緒に帰った。
軽く話をしながら部屋の前まで来ると、一言お礼を言うために自室の扉の前で振り替える。
シオンさまは、すぐ背後に居たらしく思ったよりも近い距離で息をのみこんだ。
けれどそれを悟られる前に、軽く微笑んでなんとか体面を整える。

「シオンさま、ありがとうございます。今日は、たくさんお話しできて楽しかったです」
「ああ、とても有意義な時間だった。また、食事を共にしよう」

頬にシオンさまの手が添えられ、そっと撫で上げる。
不思議に思って顔を見上げると、普段のシオンさまからなら決して見ることはない、艶があるのにとても柔らかな笑みを浮かべていた。
とても秀麗な顔立ちで、そんな笑みを浮かべられると心臓が高鳴って、魅入るように身動きが取れなくなった。

「シ、オン…さま……?」

近づいてくるシオンさまの陰に隠れて薄暗くなる視界と、唇の端に触れる柔らかな感触。
何をされたのか理解した瞬間、一気に顔に熱が集まる。
それを隠すように手で口元を抑えていると、シオンさまの忍び笑いが聞こえてきた。

……おやすみ」
「え、あ……おやすみ、なさい?」

不意打ちのような挨拶に呆然と返事を返すことしかできずにいると、シオンさまは上機嫌で自分の部屋へと帰って行った。
いったいさっきのは……どう考えても、触れていたのはシオンさまの唇で……考えれば考えるほど、なぜどうしてと疑問が浮かぶばっかりだった。
シオンさまには、長年想い続けていた相手が居たはず……いくら似ているからって、シオンさまに限って見誤るなんてことは……。
このまま部屋の前に居ても拉致が明かないので、部屋へと入るとアイネがベッドメイキングをしていたところだった。

「……さま?顔が随分と赤いのですが……どうかなさいました?もしかして、熱でも……?でしたら、すぐに氷枕とお薬をご用意いたしますっ」
「ち、違うのっ……外がちょっと暑かったの。大丈夫だから、気にしないで?」
「暑い……?では、窓をお開けしますね」

開かれた窓から、夜の風が舞い込んできて頬を撫でる。
これで少しは頭も冷えたらいいのにと思って椅子に座ると、窓を開け終わったアイネがすぐそばに寄ってきた。

「……さま、シャカさまから伝言です。お向かいの部屋で待機しているので、部屋から出る際は声をかけるようにと……それと、私事になりますが……さきほどは、ありがとうございましたっ」

深々と頭を下げるアイネを見て、さっきの教皇の間でのことを言っているのに気付いた。

「私は何もしてないわ」
「い、いえっ……さまが傍にいてくれるだけで……心強かったです。私、本当に……震えて、どうしたら良いのかさえ……わからなくて」

アイネは、どこか悲しげに目を伏せ、祈るように手を組んだ。
けれどすぐに柔らかく微笑んで、海を模倣したような青い瞳を緩めた。

さま……傍にいてくれるだけで、その存在だけで救われることもあるんです……」
「アイネ……」
「母が他界した後、身寄りがなくて……この聖域の女中として働き始めましたが、ここでもずっと独りでした……その中で、さまは私を見つけてくれました……そして、お傍に置いてくれました。それだけで、私は救われたのですから……」

アイネの放った言葉で"ここでもずっと独り"というのが気になった。
やっぱり、あの時の女官の言葉はアイネを指していったものだったとしたら……そのままにしては、いけないと思った。
別に正義感が強いというわけでもないけれど、身近な人が理不尽な状況に追い込まれているのだけは見過ごせない。

「アイネ……私がどうして地下へ行ったのか……それはね、誰かを地下へと誘導したって話を聞いたからって言ったけど……その時にね、女官はドブネズミって言ってたの。だから様子を見に地下へと下りて行ったのよ」

アイネは"ドブネズミ"という単語を聞いたとたんに、体を硬直させるように固まった。
顔も血の気が引いていき、みるみる青ざめていく。
それを見て、やっぱりアイネのことを指していたのだと確信した。

「どうして……それを……っ」
「落ち着いて、アイネ。ごめんね、なにか嫌なことを思い出させてしまったみたいで……ただ私は、知りたいの。どうしてアイネが標的になっているの?」

アイネは顔を青ざめさせたまま、何度か視線を泳がせると、意を決したように口を開いた。

「彼女たちは、教養も学もあります……いつ、聖闘士さまとの間に間違いが起きてもいいようにと。いえ、正確には……家柄に伴った伴侶……ご自分の伴侶を黄金聖闘士さまにしたいために、この聖域へと働きに出るのです。たとえ、望みが叶わなくても聖域の女官として働いていたということで、箔がつきます」
「なに、それ……シオンさまも、それを知ってるの?」

まるで信じられないような話だった。そんなこと考えたこともなかったし、そんなそぶりも女官達からは見えなかった。
アイネは否定するように小さく首を横に振った。

「教皇は知りません……それは、女官の者たちの間でのことです」
「女官には、女官達を統率する女官長が居るはずなのに、どうしてそんなことに……?」
「女官長も、元は女官です……彼女たちと同じ考えをしているのです」

眩暈がしそうだった。彼女たちは、アテナの崇高な意思のもとに集ったんじゃなくて……私利私欲のために、この聖域で働いていたということなのだから。

「女官の大半は家柄から決まります。とくに女官を多く輩出する家柄は、初めから女官になってしまうことも……。そして、女中から女官になる方もいらっしゃいますが……そのほとんどは、女官のお気に入りで口添えでの昇進……私は……女官の方々に気に入られなかったようで……」

つまりアイネは、女官の人たちから見たら邪魔な存在だったということで邪険に扱われていて……それで天涯孤独だったアイネは、自信というものを失っていったのだと解った。
ふと、最初に侍女候補として紹介されたカサンドラを思い出した。
あの時の、射抜くような視線は……いきなり巫女として私が現れたから、きっと面白くなかったのだろうと推測した。

「お願いです、さまっ……どうか、お傍に置いてくださいませっ……わたしのような者がこのようなお願いをするなんて、おこがましいことは解っておりますっ!ですがっ、どうか……っ……嫌いに、ならないで……ください……っ」
「大丈夫よ。そんなことでアイネを侍女から外すこともないし、嫌うなんてことはありえないわ。それにアイネの願いですもの、おこがましいなんて微塵も思わないわ」

今にも泣き出しそうな顔で必死に訴えてくるアイネを安心させるように微笑む。
どこか安心したアイネは、緊張が解けるように床に座り込んだ。
ふと、幼い頃を思い出した。孤独というものは、心を蝕んでいく……まして悪意の渦の中は、思考さえ奪って正しい判断がつかなくなることさえある。

さま……わたし、きっとさまのお傍にいても……誰からも文句を言われないくらい……強く、なってみせます」
「ええ、少しずつでいいの……本来のアイネはきっと、強い子だと思うもの。きっと、アイネなら強くなれるわ」
、さま……っ、ぅ」

アイネは、耐え切れずに漏れる嗚咽を殺すように泣き始めた。
そっと近づくと、優しく抱きしめる。悪意に満ちた渦の中で、アイネはどれだけ耐えてきたのかと考えると辛かった。
何度も"大丈夫だから"と囁いてそっと背中をなでていると、やがて落ち着いたらしくアイネは我に返ったように立ち上がると何度も頭を下げる。

「す、すみません……っ、わたしったら……すっかりさまに甘えてしまって……っ」
「いいの。気にしないで……それよりも、落ちついた?」
「は、はい……わたし、本当に……」
「気にしたらダメよ?わかった?……それにアイネ、目が泣きすぎて腫れ上がってるわよ?」

泣きながら涙が零れないようにと何度も目を擦っていたアイネの目元は、瞼から薄らと赤味がさすように腫れ上がっていた。
その目元を恥ずかしげに隠すように抑えたアイネが妙に可愛く見えて、くすくすと笑いが漏れる。

「今日はもう、遅いし自室に帰る?……というか、もう帰った方がいいかもしれないわね。ゆっくり休んで、また明日元気なアイネの姿を見せてね?」
さま……はいっ。では、お休みなさいませ」

アイネは頭を下げて一礼すると扉の向こうに消えて行った。
今日は色々なことがありすぎて、静かな室内で1人になると一気に疲れが出てきた。
綺麗に整えられたベッドへと腰かけると、そのまま寝ころんだ。