□ 戸惑い □
白羊宮に着くと、ムウのテレポートで街の市場へと行き、供えるための花束を買った。
市場での知り合いには、ムウを連れていることにさんざん冷やかされたけれど、苦笑と溜息しか出なかった。
聖闘士たちの墓場で師の名前を彫られた墓石を見つけると、座り込んでそっと墓石を撫でる。
「バシレイオスさま。帰るのが遅くなって、ごめんなさい。私が感情のままに行動したことが、こんな結果になるとは思いませんでした……。本当に、不出来な弟子で、ごめんなさい」
静かに墓石に語りかけると、持ってきた花束をそっと墓前に置いた。
墓石に刻まれた師の名前を見ると、改めてここで師が眠っているんだと思い、目に熱いものが溢れてくる。
ここで目にたまった涙を拭くと、ムウに気を使わせてしまうから、そのまま耐えた。
視線を墓石から逸らさずに、隣に居るムウに話しかける。
「師はね、日本が大好きだったのよ。日本の料理とか文化とか……師の部屋には沢山の日本の本があって、私もよく小さい頃は勉強させられたわ」
「だからは、幼い頃に日本から連れてこられても日本のことをよく知っていたのですね」
「それもあるけど、私の故郷だから……両親と過ごした思い出が沢山あるの。だから、覚えてるのもあるのよ」
思い返せば、師に引き取られて学んだことは、大切なことばかりだった。
聖闘士としての修業は大変だったけれど、それ以上に私の中で失っていた人の温かさを思い出させてくれた。
ますます目頭が熱くなって、視界が滲んでくる。
「……、もしかして泣いているのですか?」
「私は大丈夫よ」
ムウの視線から逃れるように顔を逸らすと、片腕を引っ張られ体勢を崩した。
気づくとムウの腕の中にいて、驚いて顔を上げると至近距離でムウと視線があった。
「ほら、やっぱり泣いているではありませんか」
ムウは翡翠の瞳を優しく細め、優しい手つきでそっと涙を拭う。
急に恥ずかしくなって、心臓の鼓動が早鐘のようにばくばくと音をたてる。
顔を合わせていられなくて、視線から逃れるように顔を逸らした。
「は、相変わらず素直じゃないですね。辛くなったら、いつでも私を頼っていいのですよ?」
「ムウは……ムウは、優しすぎるわ……私がますます弱くなっちゃうじゃない」
恥ずかしいのに、抱きしめられていることに安心感を覚える。このまますがって泣いてしまいたいとさえ、思ってしまう。
けど、それをすると自分自身がどんどんと弱くなっていってしまう。それがわかっているから、なおさら甘えられない。
「弱くなってもいいのですよ。私がずっと側にいますから……」
「ムウ……なんで、そんなに……優しいの?」
師の死を知ったあの時も、ムウはこんなふうに優しく包み込んでくれた。
どんなにムウに冷たくしても、ずっと優しくて。その優しさが不思議だった。
「私と出会ったときのことを覚えていますか?」
「ムウと?……ムウ、修復の練習中か何かで聖衣を見てたよね?私、ムウが何してるのか解らなくて、ムウに聞いたんだっけ」
「ええ、それが私たちの最初の出会いです。あの時、私はの事を一般人として見ていました。自分とは違う世界の人間だと……そう思っていました」
「そう……」
何も知らずに、何もわからずにいた幼い頃。無邪気にムウのところに遊びにいっては、ムウに絡んでた気がする。
今にして思えば、あの頃のムウはどこか遠慮がちだった。まさか自分との間に壁を作っていたなんて、驚きだった。
「でも、きっとあの頃から……私は、のことが……」
「ムウ……?」
ムウの口調が真剣みを帯びたものに変わっていて、不思議に思って顔を上げると翡翠色の瞳とぶつかった。
いつもなら穏やかさを秘めている翡翠の瞳は、その優しげな色とは対照的に、まるで焦がれるような情熱をはらんでいた。
こんなムウは見たことがなくて、驚きのあまり身体が固まり言葉が出なくなってしまう。
「に大嫌いと言われ、冷たい態度をとられても……なぜ、から離れなかったのか解りますか?」
「……どういう……こと?」
聞いてはいけない。なんとなくそう思ってしまうが、なぜか聞いてしまった。
ムウの言葉の先が気になって、ムウの視線から逃れることもできない。
「それは……、貴方のことが好きだからですよ」
頭が真っ白になって、完全に思考が止まってしまう。
ただ固まったように、ムウの普段と違う熱を帯びた翡翠の瞳を見つめる。
「愛しているんです、。貴女のことを……幼かった頃から、ずっと心の中に、貴女がいたんですよ」
どこか切なく苦しげに告げるムウからは、痛いほどの思いを感じ取れて、胸が締め付けられるように苦しくなった。
このまま得体の知れない感情に引きづられていくのが怖くて、ムウから少しでも離れようとするけど、後ろに回されたムウの腕は全く動かない。
逃げ場の無い状況の中で、頭が混乱してくる。自分は巫女なのに、アテナにずっと仕えるのに、ムウは何を言っているのだろう。
「で、でも私は……っ、アテナの巫女でっ」
「わかっています。私は……、貴女の気持ちが知りたいのです」
「私の……気持ち?」
今までずっと、聖闘士として育てられて、そんなことを考えたことが無かった。
聖闘士としてアテナに仕え、正義と平和を護るために、この世界を護りたいために、一生を捧げるつもりだった。
ただ、それが聖闘士からアテナの巫女へと変わっただけの話で、結局のところ私は、人を愛したことが無いんだと気づかされる。
「わからないの……好きって、人を愛してるって、どんな気持ちなの?」
「その人を、求めてやまないことです……心の底から、渇望してしまうのですよ。欲しいと、自分だけのものであって欲しくて……切なく、辛くて苦しいときもありますが、その人が微笑んでくれるだけで幸せにもなれるのです」
とても切なそうなのに幸せそうな、そんなムウの表情を見ていると、彼がどれだけ恋焦がれているのかが伝わってくる。
でもムウが感じた想いを、私は感じたことが無い。だから、理解できなかった。
「そん、なのっ……わからないわ」
「……もっと私を、意識してください。私はいつだって、、貴女を見ているのですから……」
ただでさえ近かった距離にあったムウの顔がどんどん近づいてくる。
それを呆然と見ていると、額にふんわりとした柔らかな感触が触れて離れていった。
ムウが優美さをたたえた微笑みを向けてきたときに、額に口付けされたんだと気づいた。
「なっ……い、今っ……」
額を隠すように手で覆うと、くすくすと笑うムウから慌てて顔を逸らした。
こんなことされたのは初めてで、恥ずかしすぎて顔から火が出るかと思うくらいに熱が集まる。
「まだ、少し早かったようですね。でも私の気持ちだけは、知ってもらいたかったのです」
「ムウ……」
「返事は、今すぐにとは言いません。も混乱しているでしょうから」
やっとムウの腕から開放されたけれど、なぜか少しだけ寂しく思った。
今までずっとムウの腕の中に居たので、周りが見えなかったけれど……よく考えればここは墓場だった。
自分の師の墓前で、なんて恥ずかしいことをと思う反面、ムウの腕の中が心地良かったなんて、自分がおかしいんじゃないかと思えた。
「ムウ、もうちょっと場所を考えて……ここ、墓場よ?」
「ええ、知っていますよ。ただ、もうなりふりに構っていられなくなってしまったんです。それくらい、を愛しているということですよ」
「わけわかんないわ……」
恥ずかしげもなく言い放つムウに、私の方が恥ずかしくなってしまう。
このままムウのペースに乗せられそうな気がして、早くこの状況をなんとかしたかった。
「バシレイオスさま、また来ますね。帰ろうっか、ムウ。シオンさまに用事が終わったら早く帰ってくるように言われてるの」
「ええ、帰りましょうか。いつまでもここに居るわけにはいきませんしね」
立ち上がると、太陽の位置を確認する。日がずいぶんと傾いているけれど、まだ夕刻というほどじゃない。
このまま師の住んでいた小屋に行って片づけをするのもいいかもと思ったけれど、そうするとどうしても帰りが遅くなってしまう。
また今度にしようと思い、聖域へと素直に帰ることにした。